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<title>ブログ</title>
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<title>第10回藝樹展のお知らせ</title>
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令和８年４月２６日（日）～５月２日（土）東京交通会館内１階パールルーム１１時～１９時生徒が１年間学んだ学習の成果を発表するために開催しています。
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/20250205103402/</link>
<pubDate>Sat, 28 Mar 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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<title>中国書道史⑥　書道の巨匠！顔真卿の魅力に迫る</title>
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書道を志す者にとって、顔真卿（がんしんけい）は前述のブログで書かせてもらった王羲之（おうぎし）とともに避けて通る事の出来ない重要な人物です。特に顔真卿は「楷書の学習において、顔真卿の書は最高の教材となる」と古くから称えられています。顔真卿（がんしんけい、699年-785年）は、中国唐代を代表する書家であり、政治家としても活躍しました。彼の書は、力強く堂々とした風格で、後世の書道に大きな影響を与えました顔真卿は、山東省琅郡（ろうやぐん、現在の山東省臨沂市）の名門貴族の家に生まれました。若い頃から学問に励み、進士に合格して官僚としての道を歩み始めます。安史の乱（755年-763年）では、地方官として反乱軍に抵抗し、権力におもねることなく正論を主張する姿勢から、忠義の人として知られています。彼の忠義心は、書にも表れていると言われ、その力強い書風は、彼の強い意志や信念の表れと解釈されています。この時の活躍で名声を高め、後に中央政府でも重要な役職を歴任します。晩年は、政争に巻き込まれ、李希烈の反乱鎮圧のために派遣された後、暗殺されてしまいした。代表作品
「多宝塔碑（たほうとうひ）」「多宝塔碑」の建碑は天保11年（752年）。題額は徐浩の隷書で「大唐多宝塔感応碑」の8文字、碑文は真卿44歳のときの楷書で、碑文の初行には「大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑文」とある。この碑は長安の千福寺に勅命により建立したもので、僧の楚金（698年-759年）が千福寺に多宝塔を建立した由来を記した碑である。現在は西安碑林に移されている。現存する真卿の作品の中では最も若いときのもので、後年のいわゆる「顔法」と称される風骨は未だ十分に発揮されていないが、碑字にあまり損傷がなく、旧拓もあるため楷書の手本として広く用いられている。「顔勤礼碑（がんきんれいひ）」「顔勤礼碑」の建碑は乾元2年（759年）と大暦14年（779年）の両説ある。真卿の曾祖父の顔勤礼の墓碑で、真卿の撰ならびに書の楷書碑である。碑高は268cm、幅は92cm。碑は永く土中にあったため文字が鮮明で、技巧的に洗練されて筆がよく冴えており、「顔法」を学ぶ上に最も重要な資料である。「祭姪文稿（さいてつぶんこう）」「祭姪文稿（さいてつぶんこう）」は乾元７５８年に現在の山東省永済市にある普救寺記された。安史の乱で非業の死を遂げた一族、中でも姪である顔季明を追悼するため記された弔文の原稿であり、塗りつぶされた34文字を含め259文字からなる。「稿」の字が示すとおり弔文の原稿であり、塗りつぶしや修正などの跡が見られるが、国家に忠義を尽くした顔真卿が一族を哀悼する気持ちをも露わに記した書は中華史上屈指の名書とされ、歴代の皇帝が至宝として蔵した。現在は台北の国立故宮博物院に所蔵されている。
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/20250218162143/</link>
<pubDate>Tue, 18 Feb 2025 16:38:00 +0900</pubDate>
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<title>東京で書道の奥深さを探求しませんか？</title>
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/20250205094428/</link>
<pubDate>Wed, 05 Feb 2025 10:12:00 +0900</pubDate>
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<title>東京で書道を始めるなら！無料体験で「書く楽しさ」を発見しませんか？</title>
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/20250205092824/</link>
<pubDate>Wed, 05 Feb 2025 09:39:00 +0900</pubDate>
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<title>中国書道史⑤　書聖　王羲之　其の二</title>
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王羲之の書をこよなく愛した唐の太宗皇帝墓である昭陵（しょうりょう、唐の太宗皇帝の陵墓で、現在の陝西省西安市の北方にある）に副葬させたと言われています。その後の戦乱を経て王羲之の真筆は全て失われたと考えられています。現在、王羲之の書とされているものも、唐代以降に模写したものと、石版や木板に模刻して制作した拓本のみであるとされています。「快雪時晴帖（かいせつじせいじょう）」は、古くは唯一の真筆と考えられておりましたが、清の乾隆帝はこの書を愛し、自ら筆を持ち「神」と記したほどです。しかし現在では「喪乱帖（そうらんじょう）」などと同様に、精密な双鉤墨（そうこうてんぼく、書の上に薄紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとり）、その中に裏から墨を塗って複製を作ること）等の手法による模写本であるとされています。「快雪時晴帖」麻紙を使用し、サイズは縦23×横18.4ｃｍ、4行で行内の字数は一定でなく、全文で28字。
台北の故宮博物院に保存されています。この書は大雪の後、友人に宛てた行書体の手紙で、本文中の４字から「快雪時晴帖」と呼ばれています。
この書を入手した乾隆帝は、「快雪時晴」にちなんで、初雪の降った翌日には必ずこれを取り出して楽しんでは感じたことを揮毫したそうです。「喪乱帖」王羲之の尺牘（せきとく、書簡、手紙のこと）5通ほどをあつめて1巻としたもの。御物。最初の尺牘の第1行に「喪乱」という文字があるので，この名称がつけられました。１紙17行、長さ63センチに及ぶきわめて精巧な模写本。王羲之の真跡そのものでなく，唐代あるいはそれ以前の双鉤墨であると考えられていますが，王羲之の書法を十分に伝えているといわれています。「延暦勅定（えんれきちょくじょう、桓武天皇の使用印）の印が押されているので、かつては桓武天皇の所蔵であったことが明らかで、もとは正倉院に蔵されていました。奈良時代に遣唐使によって唐から将来されました。「楽毅論」楽毅論は、中国、三国時代の魏の夏候玄が、戦国時代の燕国宰相であった楽毅と言う人を論じた文章です。それを王羲之が書いたものが伝来し、その気品ある楷書は古くから重んじられていました。正倉院に伝わる「楽毅論」は、光明皇后(701-760)が中国東晋時代・王羲之が書いた楽毅論を臨書したものです。奈良時代は、貴族の間で詩文が盛んにとりかわされ、遣唐使が中国からすぐれた書や道具を伝えたこともあって、書道が盛んでした。
光明皇后は、早くから仏教に傾倒し、藤原不比等から受け継いだ財産を施薬院などの慈善事業に用いて人々の救済に力を尽くしていました。天平勝宝8年(756年)に亡くなった聖武天皇の冥福を祈るために、遺愛の品々と共に東大寺へ献納されたのが、この楽毅論です。王羲之の筆づかいの特徴をよくつかみ、原帖のよさをくっきりと浮かび上がらせた臨書の最高峰と謳われています。#書道#教室#資格#体験#書道史#漢字#王羲之#書聖#蘭亭序#紹興#太宗皇帝
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/202407081359/</link>
<pubDate>Mon, 08 Jul 2024 13:59:00 +0900</pubDate>
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<title>中国書道史④　書聖　王羲之　其の一</title>
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王羲之（おうぎし）303年～361年中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれます。王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、「書聖（しょせい）」と称され、末子の王献之（おうけんし）も書を能くし、併せて二王（羲之が大王、献之が小王）の称をもって、伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがあります。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめています。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編集された「淳化閣帖（じゅんかかくちょう）」の影響が大きく、王羲之の作品としては、行書の「蘭亭序（らんていじょ）」が最も高名ですが、王羲之は各体を能くし、「書断」では楷書・行書・草書・章草・飛白の五体を神品としています。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにあります。
「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」と形容されています。
他の作品には、「楽毅論」「十七帖」「集王聖教序」「黄庭経」「喪乱帖」「孔侍中帖」「興福寺断碑」などが見られるます。
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていました。
朝廷の高官からも高く評価され、たびたび中央の要職に任命されましたが、羲之はそのたびに就任を固辞し、友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史（会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近）となりました。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しみました。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注ぎました。
355年、病気を理由に官を辞して隠遁。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたといいます。〈蘭亭序〉永和9年（353）3月、王羲之は会稽山陰の蘭亭に41人の名士を招き、詩会を催しました。これが有名な、蘭亭の雅宴です。王羲之を含め都合42人が曲水の畔に陣取り、上流から觴(さかずき)が流れ着くとその酒を飲み、詩を賦(ふ)します。しかし、詩が出来上がらなければ、罰として大きな觴の酒を飲まなければなりませんでした。
この日、四言と五言の2編の詩をなした者11人、1編の詩をなした者15人、詩をなせず罰として大きな觴に3杯の酒を飲まされた者は16人でした。
酒興に乗じて王羲之は、この詩会でなった詩集の序文を揮毫(きごう)しました。世に名高い蘭亭序です。28行、324字。王羲之は酔いが醒めてから何度も蘭亭序を書き直しましたが、これ以上の作はできず、王羲之も自ら蘭亭序を一生の傑作として子孫に伝えました。〈集字聖教序〉唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門懐仁（えにん）が、高宗の咸亨3年（672年）12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。
羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。
字数は約1800字で、原碑は現存する。次号に続く・・・#書道#教室#資格#体験#書道史#漢字#王羲之#書聖#蘭亭序#紹興#太宗皇帝
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/202406010653/</link>
<pubDate>Sat, 01 Jun 2024 06:53:00 +0900</pubDate>
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<title>中国書道史③　三国時代</title>
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三国時代の書道
後漢末期の184年に、「黄巾（こうきん）の乱」と呼ばれる農民反乱が起き、これ以降隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けました。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代言い、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めました。
黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立て、中でも有力であったのが、漢王朝の皇帝を擁していた曹操です。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れ、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕（そうひ）が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国しました。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり蜀を建国。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代と言います。この時代は戦乱が打ち続いた時代であり、また、建安10年（205）、後漢の献帝を擁立していた曹操が、経済を圧迫しているという理由から建碑を禁止した為、この時代の刻石で現存するものは少なく、魏においてもこの禁令がそのまま実行されました。建碑禁止令の発令により漢代は陵墓が重んじられ、それらの諸碑により書風の変遷をみると、漢の隷意を継承しながら徐々に楷書に移り行く隷楷中間の書風といえます。
この時代に楷書の名跡（法帖）を数多く残した魏の鍾（しょうよう）は傑出しており、漢代に生まれた楷書は鍾によって完成の域に達したということができます。特定の個人がはっきりと芸術家としての評価を与えられるようになったのは鍾あたりからで、これは書道の芸術的認識が高まったことをよく示しており、その後晋、さらに唐、北宋へと引き継がれていきます。鍾（しょうよう、151～230）
魏の書家、政治家。字は元常。後漢の末に孝廉（こうれん）として登用されて黄門侍郎となったが、魏国建国の功臣として重用され官位を得る。大傅（たいふ）の官に至ったので、鍾大傅とよばれる。書は隷書・楷書・行書の三体をよくしたと伝えられ、後漢の張芝とともに並び称せられる。【宣示表（せんしひょう）】全298字。鍾71歳の書と伝えられる。真跡は後に王羲之の手にも渡る。この帖は王羲之の臨本である。
扁平な形、線の伸びと縮みが調和する。三国時代の石刻【「天発神讖碑（てんぱつしんしんひ）」】三国時代の有名な石刻で三国時代の呉において天璽（てんじき）元年（276）以降に建てられた顕彰碑。元号により「天璽紀功碑（てんじきこうひ）」、折れて発見されたことから「天璽断碑」「三段碑」とも呼ばれ、同年に建てられた「封禅国山碑（ほうぜんこくざんひ）」と建碑事情が同じであり、両碑は兄弟関係にあるります。独自の極めて特殊な書風と内容を持った碑として知られ、呉を滅亡させる要因となった暴君・孫皓の暗愚さを象徴する存在でもある。
魏の碑が大半を占める三国時代にあって、貴重な他国の書蹟である。しかし原石は北宋代から数度移転された後、清の嘉慶10年（1805）に火災で焼失し、現在は拓本のみが残されている。#書道#教室#資格#体験#書道史#漢字#三国時代#楷書
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/202403261443/</link>
<pubDate>Tue, 26 Mar 2024 14:43:00 +0900</pubDate>
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<title>中国書道史②　秦代～漢代</title>
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現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばしました。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことがあり、秦王政は、他国の列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上初めての中国統一を成し遂げ、秦王政は自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら秦の始皇帝と名乗りました。権勢と命令の施行を徹底させるために、秦が自国で使用していた文字を統一させる必要があり、秦の始皇帝は篆書の名家として知られる李斯（りし）に命じ、それまで使用されていた大篆（だいてん）に代わり、小篆（しょうてん）を正体として定めました。「大篆」は広義的には秦代より前に使用されていた書体全て（甲骨文、金文など）を指しますが、一般的には周末期の金文を起源として、戦国時代宇に発達して整理され、代表的な物に「石鼓文（せっこぶん）」があります。【石鼓文】周時代の末期から、文字を石に刻した資料が現れ始めました。多数の石刻の中で中国最古のものが「石鼓文（せっこぶん）」です。これは書道史上最大の資料とされ、古来、西周の宣王時代の史籀（しちゅう）の書であるとされ、籀文（ちゅうぶん）、また秦の小篆に対して大篆とも呼ばれます。大篆と小篆の比較その一方で、小篆を簡略化して速く簡単に書ける隷書（古隷、右はらいが無い）が補助体として使用されました。小篆は造形的には美しい反面、書くには繁画で難しく実用に適さなかった為に篆書の速書きとして一般に通用したのが隷書と言われています。そして漢代になると小篆に変わり隷書が正体となりました。これは七代皇帝である武帝（ぶてい）が儒教を国教としたことに起因します。儒教の経書は伏生（ふくしょう、前漢初期の儒学者）の言を錯（ちょうそ）らが隷書で書写したもので、漢代においては古文に対して隷書を今文（きんぶん）と呼んでいたことから、これらの経書は今文経（きんぶんけい）と呼ばれ、今文経による学問を今文学と称しました。儒教を国教とした際、今文学が官学（政府や国などが設立・管理する学校）となり、これにともなって隷書が正体とされました。小篆より簡略化され書きやすくなった隷書ですが、それでも早書きには適さなかった為、八分隷（右はらいのある隷書）を早書きし、更に点画を省略した章草（しょうそう）が史游（しゆう）によって作られたとされ、主として尺牘（せきとく、現代の手紙）などに用いられました。そして章草を更に簡略化した現代の草書に近い今草（こんそう）が後漢の張芝（ちょうし）によって作られます。しかし、章草も今草も決して一人の力で生まれたものではなく、章草は八分隷と前後して興っているので、八分隷の自然の変化と見るべきでしょう。章草の書き手として、史游、張芝の他に、後漢の章帝（しょうてい）、魏の鍾（しょうよう）などが有名です。後漢の書の特徴は八分隷が発達したことで建碑が流行し、八分隷の刻碑として現存するものが多く見られます。隷書の全盛期というべき時代で、その美的価値が存分に発揮されました。また、後漢末期には速書体として楷書・行書の新書体も使用されるようになり、現在使用されているすべての書体は後漢末期までに具わったことになります。【開通褒斜道刻石】（かいつうほうやどうこくせき）
後漢の永平9年（66）に刻された摩崖碑（まがひ）。全16行、縦126㎝×横254㎝。右はらいのない「古隷」で刻されている。漢中太守の勅命を受け、4年の歳月をかけて褒斜道の開通工事を完成させた功績を記録したもの。
現在は、原石が岩壁から切り取られて、漢中市博物館の陳列室に移設されている。摩崖碑とは自然石や岩肌に刻された文字。【石門頌】（せきもんしょう）
後漢の健和2年（148）の作。縦205㎝×横185㎝、22行で、1行に30～37字が刻されている。字幅は7センチ程度で、書体は派勢をもつ八分隷。陝西省褒城県にある褒斜道の一端に石門と呼ばれるトンネルがあり、その内壁に刻された摩崖碑。
石門一帯は現在ではダムの水底に没しているが、開通褒斜道刻石などと共に原石は岩肌から切り取られて、漢中市博物館の陳列室に移設されている。摩崖のため多少行がうねっているが、伸びやかな線に深い情趣を備えている。【曹全碑】（そうぜんひ）
後漢の中平2年（185）に刻された石碑。縦273㎝×横95㎝、碑陽は20行で1行45字、碑陰は建碑関係者57人の名が記されている。八分隷で書かれており、漢隷を代表する作品。
長く土中にあったために本文はほぼ完全な状態で、外形は扁平、横画は伸びやかで流麗、優雅な書風でる。現在は陝西省博物館の西安碑林に収められている。西安碑林は、北宋の元祐5年（1090）唐代・宋代の著名な碑を集めたことに始まる。#書道#教室#資格#体験#書道史#漢字#秦#漢#隷書#石碑
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/202401220928/</link>
<pubDate>Mon, 22 Jan 2024 09:28:00 +0900</pubDate>
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<title>中国書道史①　「甲骨文」・「金文」</title>
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漢字は中国で発祥し朝鮮半島を経由し日本にもたらされたと考えられています。その後はベトナムなどの周辺諸国にも伝わり、その形態・機能を利用して日本語など各地の言語の表記にも使われました.。中国最古の王朝とされている夏（「か」、紀元前2070年頃~紀元前1600年頃）時代には、文字をはじめ考古学的には何も発見されていません。その為、殷（「いん」、紀元前17世紀頃紀元前1046年）が考古学的には実在が確認されてい中国最古の王朝となります。殷代にはすでに毛筆を使用した遺品があり、幼稚ではありますが無意識の中に芸術性がうかがえる物が発見されています。殷の盤庚（ばんこう）王が都とした安陽の殷墟（いんきょ）から発見された「甲骨文字」が現存する最古の文字です。それ以前のものは文字と言うより符号的なもので「刻符」「陶片文字」と呼ばれています。殷から周（「しゅう」、紀元前１１世紀～紀元前256年）へかけて青銅器の発展により、銅器に銘文が施されるようになり、これを「金文」と呼びます。字形は甲骨文より曲線が多くなり、初期の図象文字は各氏族の標識（日本の家紋のようなもの）と推定されています。甲骨文は実用にのみ使われましたが、それ以降の文字には洗練度と装飾性が加わってます。金石文はかなり古くから研究が進んでいましたが、甲骨文が発見・研究されるようになったのは19世紀末になってからです。1899年、当時の清の国子監祭酒であった王懿栄（おういえい）は、持病のマラリアの治療薬として、竜骨（大型哺乳動物の化石化した骨、特に種別は特定されていない）と呼ばれていた骨を薬剤店から購入したところ、粉にする前のその骨に何か文字が書かれていることを発見して、驚いて薬剤店から竜骨を大量に買い集め、そのことを知った他の研究者たちも竜骨を買い集めたというのがよく言われる逸話です。この逸話が真実か否かは不明であるが、研究が始まったのが1899年の前後であること、その先駆者も王懿栄であることには間違いないようです。
現在見ることのできるもっとも古い文字資料が甲骨文であることは知られています。では甲骨文より以前の文字はないのかと言うと、多くの研究者が当然のように甲骨文の元となった姿の文字があると考え、考古学的発見を期待していますが、残念ながら期待とは裏腹に、依然として発見には至っておりません。。漢字は、現代も使われ続けている文字の中で世界で最も古く成立した文字です。人類史上、最も文字数が多い文字体系でもあり、その数は10万文字をはるかに超え、他の言語の文字体系を圧倒しています。ただしそのほとんどは歴史的な文書の中でしか見られない頻度の低いものです、研究によると、中国で一般的に生活をするためには、3000から4000の漢字を知っていれば充分とされています。近代以降、異体字を整理したり、使用頻度の少ない漢字の利用を制限しようとする動きは何度もありましたが、1950年頃から「簡体字（かんたいじ）」と呼ばれる漢字を簡略化独自の漢字が使われるようになりました。中国・シンガポール・マレーシア等で使われる簡体字ですが、台湾では使われていません。#書道#教室#資格#体験#書道史#漢字#甲骨文字#篆書#金文#大篆#小篆
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/202312081225/</link>
<pubDate>Fri, 08 Dec 2023 12:25:00 +0900</pubDate>
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<title>「唐紙」「和紙」など、書道で使われる用紙につて</title>
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書道において欠かすことのできない４つの道具、筆・墨・硯・紙を総称して「文具四宝（文房四宝、文房四友とも）」といいます。文房とは中国語で文人の書斎のことを表し、そこに備えておく道具のことを文房具と呼ばれるようになりました。基本的に筆、墨、紙は消耗品である一方、硯は半永久的に使うことができます。今回はこの文具四宝の中の一つである「紙」ついてのお話しです。「唐紙」と「和紙」書道で使われる用紙には、大きく分けて「唐紙（とうし）」と「和紙（わし）」があります。「唐紙」は一般的に「和紙」と比較すると繊維が短く破れやすいのですが、書を書くことを目的にして作られているため、墨が浸透しやすく、書道の味わいである滲みやかすれがきれいに出やすい特徴を持ちます。一方「和紙」は和紙は国産の三椏（みつまた）・楮（こうぞ）・麻や天然の雁皮（がんぴ）を主原料とした紙を指します。唐紙よりも繊維が長く丈夫なため、紙質はしっかりしているのが特徴です。また、和紙の中でも原料によって麻紙・雁皮紙・穀紙（こくし）と違いがあります。「手漉き」と「機械漉き」「唐紙」「和紙」ともに職人の手で作られた「手漉き（てすき）」と、工業的に機械で作られた「機械漉き（きかいすき）」があります。洋紙と和紙が区別されるようになったのは、明治時代のことです。西洋の技術が導入され、日本でも機械漉きが行われるようになると、楮などを原料とする伝統的な紙とは味わいを異にするため、機械漉きを「洋紙」、手漉きを「和紙」と呼ぶようになりました。現在では、機械漉きの和紙も作られるようになり、厳密な分類は難しくなりました。「手漉き」と「機械漉き」の違いの一つに、生産する紙のサイズにあります。和紙は一枚ずつ漉くのですが、機械では長い紙を連続して製造し、その後にカットします。原料も「和紙」は格などの伝統的な繊維を使いますが、「機械漉き」では木材パルプが主流です。「手漉き｝は高価な物が多く、作品の揮毫や清書などに選ばれます。発墨がよく、滲みやかすれなど表情豊かに描くことができるのが特徴です。紙の中に墨が浸透していき、浸透具合で墨色の美しさに変化を与えます。ここ数年は原材料である物資が中国から輸入しにくくなったり、国内の工場の後継者の問題等、職人不足の影響で全般的に金額が高騰している物が多いのが現状です。「機械漉き」は手漉きに比べると安価で入手しやすく、半紙選びの際は、練習用は機械漉き、清書用には手漉きと言うように使い分けると良いでしょう。小学校や中学校の習字（書写）の授業で使われる用紙は、ほとんどがこの「機械漉き」で、街の文具店やスーパー、百貨店などで簡単に購入する事が可能です。用紙の選び方書道で使う紙にもたくさんの種類の紙があり、先に述べた通り「唐紙」「和紙」「手漉き和紙」「機械漉きの紙」など様々な種類があります。これといって選び方に明確な決まりはなく、用途・目的に応じて、紙を選ぶ事が大切です。紙を選ぶ要素は多くあります。①書体②紙の色③墨の発色④かすれ・滲み⑤紙の厚さ⑥漢字か仮名か⑦サイズ⑧価格数え上げればキリがありませんが、これら全てを考慮する必要があると考えます。師匠が「この紙は良い紙だ！」と言ってもその紙が自分に合った紙であるとは限りません。同じ紙でも筆に含ませる墨の量や、運筆スピードによっても表現が変わってきます。遠回りのようですが沢山の紙を使ってみて、その中から自分が表現したい線を書く事が出来る用紙を見つけるのが良いでしょう。余談ですが、「半紙」という言葉をよく耳にしますが、これは書道で一般的に使われる紙の種類を指す言葉ではありません。「半紙」は紙の大きさを指す物です。約24.3cm33.4ｃｍ、これが「半紙」のサイズです。#書道#教室#資格#体験#手漉き#機械漉き#原料#中国#日本#加工紙#子供#習字
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<link>https://kokusaishodou.com/blog/detail/202306151117/</link>
<pubDate>Thu, 15 Jun 2023 11:17:00 +0900</pubDate>
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